「ゲルトルート」が「春の嵐」になった理由
/
ヘッセの春の嵐の感想をいくつか見ていると原題はゲルトルート(ドイツ語の女性名)だったらしい。
邦訳(誰?)で春の嵐になったらしい。
原題のままで良かったという感想の人もいる。
残念。
他人の感想をみると自分が読んだ本と同じかどうか心配になる。
ストーリーを追い掛け過ぎて、大事な本旨が抜けているような。
読書は全体も大事。
自分の問題意識を投影させて読むことも大事。
本は生き物。
読む人の心を映す。
読書が目的になっている人の感想は似たり寄ったりで詰まらない。
※
さて「ゲルトルート」が「春の嵐」になった理由
読んでから時間が経つので何も特定できないが、
自分の外にあるもの(客体)が、ゲルトルートとすると、自分の内面にあるもの(主体)が、まさに春の嵐と言うことだろう。それはより本質的でこの書籍のテーマそのもの。
生き方の問題で、是非はそれぞれの判断で良い訳だ。
小利口に生きても、馬鹿正直に生きても、適当なバランスで生きても構わない。
年月を経て振り返っても、やはり是非は分からない。測るものは無いか変わるかはっきりしないのだから。
大事なことは、自分は何を選択したか、自覚する事だろう。
※
自分の心に沸き上がったものは自分はどのように理解したか。
誰の心にも春の嵐は起きる。
※