何かの事情で、行動を延期することはあるが、それの程度が極端な習性を持つ人は、先延ばしあるいは先送りの魔法に取りつかれている人となる。
理由は色々。あれこれ考え始めると、判断がつかなくなる。
信条に反する内容の場合も、受け入れの先延ばしを測る。
これは否定的に考えることはない。
人が生きていくための知恵の一つだ。現代人が獲得した資質ではない。動物の本能の一部だ。
恐怖心、不安、不信などを伴うイメージング(未来予想)では、行為行動を制限する。
先延ばし・先送りは動物が生きながらえる知恵の一つだ。
客観的に合理的な理解ができないとき(動物とか科学技術の未発達の時代)は、まあ、当然として、この現代においても、人は先延ばしは問題と分かっていても、その心理状態から抜け出せない。
なぜ?
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失うことの不安は尽きない。
生命、健康、財産、家族、地位、仲間、・・・。どのように説明されようが、不安が心を支配したら、行動は全て保守的あるいは現状維持のバイアスがかかる。
複雑な問題は解けない。
科学技術が提示する単純な条件下での指針は理解し受け入れることができる。 しかし、複雑系の社会と関りを持つ問題、失うことと連関する問題は、解けない。ロボット秘書でも出てくれば人は不安からある程度は解放されるかもしれない。
解決能力の低下。
心理的な状態とは別に、物理的身体的能力的に行動能力が低下すると、必然的に先送りになる。
老害国会は三位一体で先送り先延ばしを続けているが、これは一人一人についても同様の状況になっている筈だ。
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TEDでパニックモンスターが登場するものがあったが、人生のパニックモンスターはどんなものか。
パニックにならない生き方は存在するか。
先延ばし・先送りは何が悪いのか。
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全体に整理されていて良い記事と思う。非常に参考になる。残念なことは、途中で広告もどきのリンクボタンが出てくること。危険を察知になってしまう。何かの商売と関係があるのか知らないが、気分的に引いてしまいます。
ここも良く整理されていて分かりやすい。
捉える視点がユニークでここも面白い。
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他にもあるが、同じ人が似たようなことを別サイトで記述しているか、パクっているか、誰がやっても似てきてしまうのか、よく分からないが範囲を広げても得られる情報は限られてきた感じだ。
原因と対策をそれぞれ分類すると、結局同じようになりがちだ。問題をどこで捉えるかと言う最も基本的なところは、概ね感覚的・妥協的に見える。
いずれも自分が何を先延ばししているか分かっているなら軽症かもしれない。
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問題解決行動は新たな問題を引き起こす行動でもある訳だ。問題はネガティブな意味での問題ではない。命題、使命、欲望などでもいいが、行動の要因となる広義のストレス全般。
満足度が上がるなら行動を起こすが、それが見えない、期待できない、逆に満足度が下がるなら、誰だって先延ばしするだろう。
従って、やらないのは結果が見えているからと言う時もある。
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人はどういう時に先延ばししないか?
- 結果が良くなる。メンタルステージが上がる。
- 結果が悪くても程度が見えている。
- 簡単にできる。時間も、コストも、労力も。
- やるべきことが明確。目的と方法論が見えている。
- 先延ばしした場合の損失を理解している。
- やりたいと言う欲望欲求がある。
- 行動条件(費用、時間、体力、気力)や環境が整っている。または整えることができる。
- これらは、ステルスも含めて、マーケティングガイが使う手法・道具立てにもなっている。「先延ばし」が正解の時もあるのだ。
「なぜ先延ばしするか」VS「なぜ先延ばししないか」
突き詰めていくと、心の問題は、生き方の問題に なってくる。Aという生き方か、Bと言う生き方か、ではなくて、このAとかBを意識すること自体が希薄だと、メンタルステージの軸が歪んで、決められなくなる。
ドーパミンが手軽に得られる、ゲームその他の世界に引きずり込まれてしまう。
挫折。その原因要因は様々。転校、いじめ、転勤、定年退職、引越、天候、受験、病気、怪我、能力の限界、失恋、喧嘩、・・・きりがない。
挫折で、自分御描いた人生計画の修正ができる人は、立ち直れる。破り捨てて、再度、作り直すことができないまま佇む人は、厄介だ。
人生などと大きな括りの捉え方では当然そうだが、小さな挫折は無限にある。思惑外れ。
リプランする能力。
ポジティブな人生観がないと醸成されてこない。ここで話は一回りしたかな。
人生のポジティブフィードバックを持つか持たないか。持ったか失ったか。
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釣りを楽しむ人は、じっと待っているのを先延ばしとは言わない。ベストなタイミングを待っている。末行為が釣りの一部なんだろう。最適なタイミングを待つうちに眠ってしまう人もいる。人ってそういうもの。釣りが性分に合わない人は釣り竿でなくて網で川底を荒らすものだ。
計画された延期は先延ばしでない。計画があってスルーするなら先延ばし?。その計画って何?。計画のない人にも先延ばしはない。
プランニングさえも放棄しているなら、最初から先延ばしかな。
計画はないけど、淡々と目の前のこと、日常を過ごしている人は?。先延ばしの感覚はないが、ひょっとすると大きな先延ばしになっているかも知れない。
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ライフプラン、キャリアプラン、マネープラン、コミュニティプラン、ファミリープラン、トラベルプラン、アセットプラン、・・・なんでもいいんだ。
プランを持つことから始める。プランが面倒なら、願望でもいいし、使命感を言葉にしてもいい。
心に軸を作れば、メンタルステージを意識できる。
ここで、無理やりは駄目。本音であること。
またぐるっと回り始めるが、
何か分からないなら、何でもいいから行動を起こしてみる。それが自分の感性に合うかどうかで、自分の心の奥を知ることができる。それの積み重ねだ。
人は常に迷う。
自分を信ずること。自分音感性を信じてあげることは、最初の一歩だろうし、最後の一歩に違いない。
自分が求めるメンタルステージが分からなくなったら、自分の感性を感じることができなくなったら、既に廃人の一歩手前に来ていると言うことかな。それはそれで一件落着だ。
何処かのセミナーで自分の最後、死に際をイメージさせるのがある。定年後の目標設定の一助のつもりにちがいない。彷徨する会社人間が多い時代だからさもありなんということだ。
どんなプランも消えていく。最後は死に際のプランですか。恐ろしいですね。
返って力を失ってしまいそうだ。
プランの程度も考え物だ。が、しかし、これこそが究極のプランという訳だ。
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ドーパミンとの関係?
ポジティブな感情を意識できるときはまだ生きることができる。そういうことだ。ドーパミンが出ないまたは意識できなくなったら人生は終わっている。メンタルステージの頂点、あるいは最後にあるものはドーパミンを欲しがる自分を意識できていることだろう。
人生をしっかり歩んだ人も、ショートカットした人も、行き着く先は同じ。
どういう自分でありたいか。意識された快楽と無意識の快楽。その違いがないかは分からない。
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