甲子園大会「健大高崎の機動破壊」批判が問う高校野球のフェアプレーの形?
面白い?。子供たちは一生懸命なのに大人たちはあれこれ批判する。いや、大人たちが批判している相手は子供でなくて監督だ。子供たちは監督に言われたことを実現させるために一生懸命なだけだ。
生徒たちのプレーまたは振る舞い言動から監督の考え方が滲み出る。それは野球人の観点から、あるいは教育の観点から、あるいは単に人間のあり方の観点から適切かどうか、日本中がPTAのごとく反応するのだ。何せ日本中の高校が参加する国家プロジェクトだ。注文も野次も多いのは当然だろう。批判とフェアプレイについて考える
2014年の夏は明日が決勝というところまできました。そんな中で幾つかのプレーが問題になっているようです。このような話のときは如何しても松井秀喜然打席敬遠の話が再燃します。
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(批判例)
健大高崎が大量リードしていても盗塁を続けるのはとても失礼な行為だと批判が出ているらしい。
超スローボールを投げる東海大四高(北海道)の西嶋投手にも失礼な行為として批判が出ている。
(山口恵以子)
ワイドナショー(フジテレビ)に出ている山口恵以子(やまぐち えいこ、1958年 - 、作家)は滅茶苦茶なことを言っていた。
高校生らしいか、らしく無いかを争点にして、
松井秀喜の全打席敬遠事件は高校生らしくない松井秀喜の方が問題だと逆批判する始末。発想としては面白いけど作家らしい無責任な発言だ。まだ読んだものはないと思うが作品を目にする前にこの「女」を大嫌いになった。
健大高崎が走りまくるのは当然。「よく走れ」というのが野球なのに走り過ぎる批判はおかしいともいう。
頑張っている子供が批判されたと思って庇っているんだろう。しかし、こういう逆張りが見るべき物を歪めてしまうのではないか。
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野球におけるマナーはゲームルールと一体となって日本に伝えられた。大昔。野球は日本でも発展し、独自のものも出来ただろう。プロ野球も独自だし、甲子園野球も日本の文化の一部になっている。
一方、アメリカ野球との交流は続くので適宜必要な修正はされてきた。野球先進国のアメリカの考え方が少しずつ入ってきていた。ところが、野茂が開拓したMLB移籍の道を辿って多くの一流どころがアメリカに渡りMLB中継も日住茶飯事になるとアメリカ野球の考え方・価値観が一気に日本に流れ込んできた。
アメリカの大リーグMLBでの選手の振る舞い、マナー、あるいはアメリカメディアの批判を見ていれば何が価値あることかについても理解が至るようになった。一部は受け入れられるようになった。
言葉でしか分からなかったものが態度や振舞いでも理解できる。「フェアプレー」であり、「フォアザチーム」なのだ。何よりも子供たちとシェアできる価値観なのだ。自分の子供に望まないことは決してしてはいけない。
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フジテレビのこの番組に出ている連中が全員問題ありなのかもしれない。ルールに外れていなければ何をやってもいいとする態度には驚く。会社としても個人としても違法でなければセーフとするなら尊敬は得られまい。若しくは逆張り発言で目立つことだけを目的にしているのか。詰まらないね。
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確かに容赦のない攻撃は大人気ない。見ていて気持ちのいいものでもない。虐め。もてあそび。そんなつもりがないなら、相手の力が回復するのを待つ。それから又全力でぶつかりあう。待つ間は策を弄するのは避ける。
スローボールはやはり失礼な態度に見える。意表を突く奇襲の一つに見えなくもないが、「お前らはこんなボールもどうせ打てるものか」という上から目線の態度がにじみ出る。真摯な態度でない。
アメリカ人が国技ともするベースボールを育てる中でアメリカ人の価値観も育ててきた。その一端を受け入れて日本の野球が育っているが、フェアプレイに対する理解はまだまだ届いていないのかもしれない。ベースボールというゲームを楽しむ心が大事なのだ。ゲームは相手とやるもので、相手への思いやりを欠くことは許されないとする考え方だ。
例えば:
- 自分の子供にお手本として見せてよいかどうか。自分の子供にも見習ってその通りやって欲しいかどうか。
- 10点差を付けてもまだ盗塁とか犠打を労して点をとりにいく行為は最早ゲームを楽しむ心を捨てたようなもの。勝ち負けは時の運としても、失った尊敬は取り返せない。いつ逆転されるかもしれないから飽くまでも貪欲に点をとる?。ゲームだもの逆転されても良いじゃないか。ボクシングならダウンしている相手に殴りかかるようなもの。
- スローボール?。特別に工夫されたスローボール、例えばナックルボールなら得意の決め球。普通にスローボールを投げてきたら、あるいは利き腕でない方の腕で投げてきたら、意表を突くことは間違いないが、見下した態度は恨みさえ買うことになるだろう。
- (松井5打席連続敬遠事件)
- リードしているのに、ランナーも居ないときに、敬遠するって試合放棄と同じ。立派な審判なら侮辱試合としていきなりゲームセットだろう。ゲームを侮辱する行為だ。こんなことが今も分からなくて明徳の監督は名監督とされているが、歴史の審判は年毎に厳しくなってきている。名監督の座から引き摺り下ろされるだろう。その時の主審(球審)の判断も問題にされるだろう。
- 例えば、敬遠の逆をやってみよう。全員が打席に入ったら、半分目をつぶってどんな棒球でも空振りを続けたらどうだろう。 全員が全打席三振するんだ。当然相手チームは勝つだろう。しかし、屈辱感いっぱいの勝利だろう。何か悪いことをしたのかと疑心暗鬼になるかも知れない。問題の監督が復帰しているそうだが、明徳が甲子園に出てきたら全ての相手チームが全打席三振をやったら優勝できる。完全優勝だ。ルール違反はやっていない。どうせ勝てないと思ったからさっさと三振してやりましたと言われて子供たちは満足するかな。
- 一度もバットを振らないことにしてもいい。結果は似たようなもの。運悪く四球になって塁に出ても走塁は始めから諦めてやってもいい。
- 明徳の打者には全員に敬遠を続けたらどうだろう。明徳には無限の点数が入る。ルール違反ではないだろう。松井の記録も簡単に破ることが出来る。
- 四球でなく死球を続けたらどうだろう。ルール違反ではない。ぶつけた代償に類を与えているのだ。誰も打席に立つことができなくなれば勝利できるかも知れない。
- 明徳の監督(馬渕?)がやったことはこんな極端ではないが本質的に同じでしょう。敬遠をさせられた投手は背負わなくて良い十字架を一生背負うことになった。馬渕のやったことは相手打者が研鑽を積んで臨んできたことを全く無視して侮辱したようなもの。試合・勝負から外してのけ者にしたようなもの。
- 今年も明徳は甲子園に出てきたが誰が応援するだろう。明徳が負けたときは美味しいビールを飲んだ輩も少なくないだろう。今尚、問題の人が監督を続けるのはどういうつもりだろうか。
- 彼の哲学だろう。信じたことを勇気を持って実行した。それに尽きると思う。
- 選手の一人ならそれでよい。監督(リーダー)はそれだけでは済まされないのではないか。次も同じことをすると発言しているようだが、確信犯的だ(法的な犯罪ではない)。反社会的なルール運用を信念でやるなら自分の個人競技でやるべきだろう。多くの人を引きずりこんではいけない。リーダーなら全員の社会との関わりを踏まえての弾力的な判断が必要なのではないか。
- 今尚、この監督に任せている学校側にも問題を感じる。なぜ彼に時間を与えようとしないのか。彼を野球漬けに追い込んでいる学校側も非情すぎる。 後任たる人を育てていないのか。時々信じられないくらい長い年数監督を続ける人が居るが、GMレベルに格上げして現場を後任に譲ることをしないのも変な気がする。飽くまでも教育の場であって、プロ野球でもないのに。
- 世間の批判以上に彼の尊厳を傷つけているのは学校の経営陣だろう。