死刑制度の存続・廃止の議論を深夜のテレビでやっている。


死刑制度の存続・廃止の議論を深夜のテレビでやっている。

ビートたけしのTVタックル

http://www.tv-asahi.co.jp/tvtackle/

冤罪事件が後を絶たない中で死刑制度を存続させるのは誰が考えても無理がある。冤罪の確立が1千分の1ならOKなのか。1万分の1ならOKなのか。昔はDNA鑑定が無かったと言っても、これから50年すれば他にも証拠価値の高い方法論が開発されていて新たな冤罪が発見されるかもしれない。

原発の維持が人間の力では無理なこと以上に、冤罪の絶滅は難しい。警察・検察・司法の中にも悪意は入りうる。所詮は人のやっていることだ。

テレビの出演者は適当な理屈を言っているが、大竹が触れた冤罪では誰もが黙ってしまった。

人の判断に絶対は無い。原爆投下で何万もの人の命を奪った人間に死刑が執行されないのは明らかな間違いだ。墓を掘り返してでも死刑にしなければいけない。理由があれば、大量無差別殺人もも許されるなら、数人の人を殺して死刑と言うのも変な話だ。

要は、罪とは極めて相対的なものだ。立場の違い、時代の違い、状況の違いで、同じ悪魔的行為も英雄になったり極悪人になったりする。

米国大統領が日本を訪問できない真の理由は罪の意識だ。原爆投下の非道は誰もがしているが敢えて口をぬぐっている。連合国は共同責任なら、隣国の今尚愚かしい政治も共同の責任がある。

<制度の基本>

悪いことをしたら、辛い思いをしなければいけない。だから悪いことはしない。(罪を犯せば罰を受けることにより犯罪は抑制される)

これが基本的な発想だ。死刑は罰の中で最も重いものに位置づけられている。

しかし、

自分が死ぬことになっても、社会的には犯罪であっても自分の正義は貫きたいこともある。社会の正義が不十分な場合は、個人の正義による犯罪は多発する。

一方、司法検察の間違いまたは悪意で自分が犯罪者にされることがある。これもまた社会の正義の不十分さの一つと捉えることができる。

社会の正義は、個と総体との関係と同じで不完全なものでしかない。要するに制度の欠陥は埋めることができない。

<発想の転換>

犯罪により社会を傷つける存在は社会から隔離する。

しかし判断ミスの可能性を認め、回復の可能性は奪わない。

個人的な恨みの部分は資産を没収し弁償に供すればよい。間違っていたら当然返すべき。

未成年なら本人は当然、親兄弟親戚などに弁償責任を取らせる。

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