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自責と他責

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自責と他責

何か問題があった場合にその問題を解決するには要因分析から原因を突き止めて適切な手を打つ。改善活動の基本ですが、一つ一つを本質から理解するのは難しい。だからできるのは改善活動ごっこ止まりかも知れない。

勤務先の仕事でやる改善と自分のプライベートの改善とやることの本質は変わらないのに、なかなか合理的なアプローチをしないものだ。

親は子供の問題を自分の問題に置き換えて取り組んでしまうが、表層的な対応が優先すると、所謂過保護が蔓延れば本質(教育・成長・社会性の確保など)を失うことになりかねない。

何かが上手く行かない時に、即ち何かの問題に直面したときに、人はどういう行動をとるか?

問題を分析して対策して 解決する。これが普通で、いつでもだれでもやっていること。

問題を回避する。最初の目的を捨てる。 自分には必要ないことと思いなおす。これは問題ではないから放置して構わないと合理化する。正しいこともあるし、誤魔化しのこともある。

問題を移転する。これは自分の問題ではないという態度をとる。この問題を解決するのは社会、組織、自分以外の誰かだとする。 自分で解決できる問題でなければこういう態度は当然のように思われるが、これで問題が解決することは見込めない。

問題の責任は他人にある。他責問題。自分は悪くない。他人が悪いのだ。それで済ます人は問題を解決できない。このまま放置すると片付かない。他人をコントロールすることは出来ないからだ。

世のなかに自責問題など存在しない。環境が時間をかけて作り出した結果があるだけで、自分もまたその結果の一つに過ぎない。



(追記)

自責・他責で検索すると色々なページにぶつかる。実務経験者の記事か知識だけで書いているのか分からないが似たような内容。引用していたら間違いも恐らく似たようなものを並べることになる。

根本的なところで間違っているのは「自責」の理解。誰かが悪いと言うのが責任問題だが、「自責」にするのは自分の行動につなげるためだ。自分が悪いから自責ではない。問題として認識できたものに対して、自分は何ができるか、自分を何をすべきか。あるいは(少しずるいが)自分は何をしたいか 、で考えることだ。

問題そのものは特定の人(力量、役割、行為、不作為、など)に帰属させることができる。どんな問題であれ、その具体的な改善・対策は仕組みに対して行うことになるから、組織のトップがその(改善や対策の)責任を負う。組織の規模にかかわらず。

問題⇒仕組みの問題。改善⇒仕組みの改善。

他責:問題の所在を明らかにすること。
自責:自分の行動を明らかにすること。

自分が当該組織のトップなら自分で仕組みの改善を図ればよい。自分が平社員ならトップにスズをどのように付けるかを考える(トップを動かすことを考える)。隣のチームで顕在化した問題でも他人ごとではない。放置できないと認識したら、仕組みの問題を突き止め、トップを動かし、仕組みを変えていく。(トップと言うのは社長のときもあるが、部長だったり、課長だったり、主任やリーダーだったりすることもある。組織の大小は問わない。)

何の行動も起こさないで、嫌々問題をそのまま受容したり、ここはブラックだとSNSに書き込んで済ますのは馬鹿の証明みたいなもの。

しかし、意識の低いトップもいるし、トップを動かすだけの力量がない場合もある。改善もできなくて受容もできないなら、転部(配置転換)や転職は一つの選択になる。

どの部署、どの企業へ行っても似たような結果になるなら、問題は深刻だ。

問題を掘り下げる力量、問題を共有できる仲間作りの力量、相手(仲間やトップ)を納得させる提案の力量。それ以前い普通に業務を遂行できる力量、また自分の力量に見合った業務を選択する能力。これらはかけていることになるから、自責問題として最初に取り組む対象は自分自身になりかねない。何も知らない・何もできない・何もやらないやつが訳の分からないクレームばかり言っているといった図式では自己嫌悪しかないだろう。



誰かの記事を見ていて:

テストで悪い点を取ったら?

学校の悪い評判になると捉えたら校長の問題。
クラスの平均が悪いならクラス担当の問題。
自分だけが悪いなら親の問題。
本人が勉強よりゲームが好きで何も勉強していない。それでいいと思うなら本人には問題は存在しない。選択した結果が出ているだけだ。

何が問題なのか、だれの問題なのか、それを正しく理解しないと対策はない。誰が問題だと言って騒いでいるのか?

クラスメート比べても十分なくらい一所懸命に勉強したけど、自分だけが悪い点数を取った場合は辛いけど受け入れるしかない。それが自分の個性なんだから。勉強をやめるともっと悪くなるから勉強は止めない。

難しい問題で点数が低いのは問題でも何でもない。天才クラスでもなければ当たり前の結果。教師が平均60点を意図して30点になったら教師の問題洗濯gあ不適切だったということになる。



自責と他責を排他的概念で理解した人は間違える。これは頭に入れておこう。

「問題の所有者」。これも啓蒙書の類では色々取り上げられているに違いない。単純に言うなら、問題を解決できるのは問題の所有者しかないということ。頭痛で苦しむ人がいて、その人が薬を飲んだり医者へ行ったり生活改善をして、その人がOKと思うまで継続しないと解決に至らない。

誰も困っていないなら問題は存在しない。もし、ガンに犯されていても、ガンですよと言われるまでは問題は存在しないから特別な対策もない。ガン宣告を受けて初めて問題となって患者・家族の対策行動が始まる。自分の問題と認識する人がいて初めて問題は問題として存在できる。所有者のいない問題は存在しない。

客観的事実、錯誤による思い込み、真実の是非は問わない。誰かが問題としたら問題になる。(だから怖い。)



  1. 問題の所有者が出現する。問題が発生し、誰かがによって認識される。
  2. 問題が理解され分析され構造化され、組織内の必要な範囲で共有され、原因が特定される。
  3. 組織としての対策、改善策が検討され具体化される。
  4. 対策、改善の一環として(関係者が各自)自分の役割を設定する。 
  5. 自分の役割を果たす。


  • 自責:組織内(自分一人のケースも含む)で共有された問題の解決のための一連の展開の中で自分が果たす役割を理解し行動する。これが自分の責任。
  • 他責:組織の内外を問わず、問題の所在・原因の所在を特定する。
  • 仕組み:仕組みの問題として理解して、仕組みの改善を図ることで対策する。実際は人の問題のこともあるが、採用・教育・指導・懲戒などの人的管理関連の仕組みの問題に焼き直す。面倒だけど継続性はある。
  • 問題の所有者:誰が困っているのか?。気付き。エスカレーション。などとも関連があるがここが一番大事。