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表現の自由には代償を求められる?自由は勝ち取った権力の証し?風刺は両刃の刃?
表現の自由には代償を求められる?自由は勝ち取った権力の証し?風刺は両刃の刃?
風刺あるいは風刺画は何処まで許されるか?侮辱されたら殺害してよいのか?
先日のフランス・パリの新聞社へのイスラム・テロ事件に付きまとう問いかけだ。しかし、問題は風刺画なんだろうかとも思う。
ローマ法王も風刺の許容範囲についてコメントしたそうだ。風刺と侮辱は大違い?。
風刺は本来は民衆や権力者の愚行への気付きを促すもの。目を覚ましてほしい衝撃の絵?。
もし、その新聞社がイスラム教徒をたびたび侮辱していたら?。日常的な移民への差別好意と合わさって深刻なものになるだろう。新聞社が野放しにされているなら、フランス人の意思と受け取るかも知れない。テロリストが付け込もうと思わなくても協力する気持ちにあるのは当然だろう。
もし、その新聞社がキリスト教徒をたびたび侮辱していたら?。普通の市民はなんとも思わないだろう。新聞社の品位を疑うが、よくある話で済まされる。それほど宗教に対してむきになるものでもないし、問題は自分の心の問題と理解しているから。
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客観的な報道は真実を述べることを本意とすればよい。
風刺は主張だ。報道ではない。四コマ漫画でも同じ。痛烈に攻撃相手を叩きのめしてもいいし、優しく思いやりの表現でもいい。其れを決めるのは自分が何であるかによる。攻撃する自由は攻撃されることを認める自由だろう。新聞社は勝手にペンにはペンで対抗しろと思ったのだろうか。ペンを持てない彼らは銃を持っただけだ。
表現の自由は何処まで許されるか?
正に愚問だ。自由は自分の側の話で許す許さないは相手の側の話だ。同じ法律、同じ倫理観、同じ宗教観の上に居るなら、相手が許すかどうかは判断できる。別のものに乗っていたら判断は出来ない。というか覚悟が必要。
イスラムによる報復は約束された事件に違いない。
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欠けていたのは思いやり。イスラムの愚行に見えるものは何かの苦しみからの逃亡ではないかとか、本当の問題は何かとか、本質をえぐることをしない風刺は自由を叫ぶ資格は無いのでは?
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シャルリー・エブド
charlie hebdo
http://www.charliehebdo.fr/
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