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「ゲルトルート」が「春の嵐」になった理由


「ゲルトルート」が「春の嵐」になった理由

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ヘッセの春の嵐の感想をいくつか見ていると原題はゲルトルート(ドイツ語の女性名)だったらしい。

邦訳(誰?)で春の嵐になったらしい。

原題のままで良かったという感想の人もいる。

残念。

他人の感想をみると自分が読んだ本と同じかどうか心配になる。

ストーリーを追い掛け過ぎて、大事な本旨が抜けているような。

読書は全体も大事。

自分の問題意識を投影させて読むことも大事。 

本は生き物。

読む人の心を映す。

読書が目的になっている人の感想は似たり寄ったりで詰まらない。

さて「ゲルトルート」が「春の嵐」になった理由

読んでから時間が経つので何も特定できないが、

自分の外にあるもの(客体)が、ゲルトルートとすると、自分の内面にあるもの(主体)が、まさに春の嵐と言うことだろう。それはより本質的でこの書籍のテーマそのもの。

生き方の問題で、是非はそれぞれの判断で良い訳だ。

小利口に生きても、馬鹿正直に生きても、適当なバランスで生きても構わない。

年月を経て振り返っても、やはり是非は分からない。測るものは無いか変わるかはっきりしないのだから。

大事なことは、自分は何を選択したか、自覚する事だろう。

自分の心に沸き上がったものは自分はどのように理解したか。

誰の心にも春の嵐は起きる。