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にげない かくさない ごまかさない

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医療過誤に取り組む医師の話。


名大病院の医療事故で人命を失ったときに、病院側の今後の取り組み姿勢を表現したもの。この精神を受け継いで取り組む専門医の番組だった。


これは色々なことに通じる態度だな。

それが大事」の歌詞にも似たようなフレーズがあったな。(”負けないこと 投げ出さないこと 逃げ出さないこと 信じ抜くこと”)



自分や自分の周囲にこの言葉を向けてみると、なかなか難しい問題が噴出してくる。「心」の強さの問題にもなる。言葉尻だけを追えば、逃げることが大事なこともある。パワハラやうつ病の結末として自死を選んだケースなどだ。

組織の中で正義を声に出せば孤立することもある。皆で赤信号を渡っている組織なども。



自分の「にげない かくさない ごまかさない」とは:

何か目標をもってことを始める。直ぐに困難はやってくる。困難から逃げれば挫折。 戦えば討ち死に。妥協とは自分の能力の限界にアジャストさせること。経験、失敗の歴史が必要。

失敗した時、過失があった時、反省する時、謝罪する時、改善や改革に取り組む時、事実を直視することが大事なのは、口先では誰でも言える。

でも世間の事例を見れば、逃げる・隠れる・隠す・誤魔化す・・・のオンパレードだ。

誰でも、自分自身をごまかす人はいないだろうが、人前に出ると真実より保身・体裁・忖度が強く働く。 心の力学。成長して社会性・協調性・欲望・処世術など複雑で矛盾する価値観を取り込む。

自分は一体何と闘っているんだろうか?



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https://www.m3.com/open/iryoIshin/article/398562/

腹腔鏡事故、「逃げない、隠さない、ごまかさない◆Vol.22

2016年2月22日 橋本佳子(m3.com編集長)
――2002年8月、名大病院で、腹腔鏡手術中の大動脈損傷による死亡事故が起き、メディアでも大々的に報道された。

 1999年の東京都立広尾病院の医療事故が起き、医師法21条が問題になってから、日本外科学会や国立大学病院長会議で、医療事故への対応や異状死をどう扱うかを議論していた。その過程でも、いろいろな事故が起き、テレビで記者会見の様子が報道されたりしていた。柔道関連で知り合いの先輩も、ある大学の病院長をやっていた時に医療事故が起き、その先輩が記者会見で頭を下げるのを、僕もテレビや新聞で見ていた。ある会議の席で、その先輩にお会いした時に、「おい、二村君」「なんですか」「いいこと教えたる」と言ってね。会見で頭を下げたけれど、「頭の下げ方が悪い」とまでメディアに叩かれたとか。「お前さんも、病院長やっとるから、もし何かあったら、教えたる」と。「あと半年ですから、まあ僕は大丈夫そうですよ」とか言っていたら、2002年10月末で任期が終わる約2カ月前に事故が起きた。
医療事故に対しても、病院長自らが前面に立って対応しないとダメと語る二村氏(撮影:近藤宏樹)

 医療事故への対応は、それまでいろいろな会議で議論し、実例も見ていたから、「逃げない、隠さない、ごまかさない」という方針で対応することを腹で決めていた。隠したり、ごまかしたりしたら、絶対泥沼になる。

 事故が起きた日は、名大の本部で会議があり、病院に戻る途中のタクシーの中で電話が鳴り、事故の第一報を聞いた。電話は、副院長からだった。その時点は、患者さんは緊急手術中だが、危ない状況だと聞いた。「ご家族を集めておいてほしい。俺が病院長として説明するから」と言って、タクシーの中から指示を出したことを覚えている。当事者の主治医たちも、事故のショックを受けており、当事者に説明させてはいけない。病院に着いた時はまだ緊急手術中で、消化器外科に代わり、血管外科の医師たちが、止血作業をしていた。主治医に状況を聞いた後、すぐに家族を呼んで、「手術中に事故が起きた。一生懸命に救命手術をやっているけれど、極めて重篤な状況なので、助かるかどうかは分からない」といったことを正直に話した。

 患者さんは2日後にお亡くなりなったけれど、その間も、またそれ以降も、ご遺族への説明は一本化し、全て僕が対応した。お亡くなりになったら、地元の昭和署に届け出た。警察は、医師法21条のことを理解していなかった。それで僕が、届け出なければ法律に抵触する可能性があると説明し、さらに「解剖に立ち会ってほしい」と依頼した。

 法医学教授は僕の同級生だったので、「法律に則れば、法医解剖だろうが、手術関連死亡だから、病理解剖の方がいいと思う」と、意見を求めたところ、彼が同意してくれた。結局、病理解剖を行い、そこに法医学の教授、そして警察が同席する形で解剖を進めた。警察は解剖写真の撮り方も知らなかったので、つき切りで細かく教えたりもした。

 事故が起きたら、公正性も担保するため、外部委員を入れて調査を実施することも決めていた。以前から僕のところによく相談に来ていた、医療事故関連では有名な患者さん側の弁護士さんがいて、すぐに彼にお願いした。彼と相談し、警察が介入しないようにすることが重要だと判断、「きちんと調査し、調査結果は公表するから、調査が終了するまで、警察は介入しないでほしい」と昭和署と交渉した。

 何かあれば、記者会見をすべきとも思っていた。記者会見も、「逃げない、隠さない、ごまかさない」という姿勢で臨んだ。

 事故が起き、患者さんがお亡くなりになったのは8月18日。8月28日には調査委員会を立ち上げ、計7回会議を開き、10月半ばに終了。警察にはその結果を説明したところ結局、警察はこの事故を立件しなかった。後から聞いた話だけれど、警察はずっと介入するかどうか、様子を見ていたそうだ。

 ご遺族に対しても、お通夜と告別式、ご自宅まで僕が行った。補償については、ご遺族の方はどのように話を進めたらいいのか分からないと言われたので、調査委員をしていただいた弁護士さんに、遺族側の弁護士さんを紹介してもらうこともお頼みして、病院側の弁護士さんと話し合いをしてもらった。

 医療事故で外部調査委員会による調査報告書が公表されたのは、日本で初めてのことであったので、病院内ではさまざまな抵抗があったが、ご遺族との信頼関係は保つことはできた。これが後に日本の医療事故対応の基本形になった。