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スポーツと暴力の間に境界線を引くことはできるか?

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スポーツと暴力の間に境界線を引くことはできるか?

  • 速見コーチの平手打ちは暴力に非ず
  • 塚原千恵子の宮川紗江虐めは理不尽な暴力(パワハラ)

「スポーツ」と「暴力」

ここでいうスポーツは余暇を楽しむ行為としての理念的なスポーツにまで範囲を広げるとミスリードするかも知れない。

筋肉を上手に使うことが求められるスポーツを教える場合はコーチと選手は接触するのは必然。どの程度の速さか強さか角度かなどを教えるには相応の接触とプレッシャーがかかる。暴力とは言わない。

この場合の線引きは、1つは、怪我につながることが無い。1つは、選手の成長あるいは安全のために行っている。1つは、選手は納得している。求めている。1つは、選手とコーチの間に信頼関係がある。指導内容は合理的で、2人が相互にベストと信じていて、将来的にも変わることは無い。

この定義に従えば、宮川選手への速見コーチの行いは暴力ではない。合理性に疑問を持つかもしれないが、体操競技の特殊性、一つ間違えば大けがで選手生命どころか本当の命までも失いかねない。その危険を回避するために取った覚醒のための刺激と理解することは十分可能で二人とも理解している行為。信頼関係が高いレベルで実現されている証拠と言える。

普通は信頼関係もないので覚醒のための刺激など入り込めない。やれば暴力として訴えられる。宮川~速見の行いを非難する人は自分が達成できなかったものを見せられて嫉妬しているだけだ。

ボルダリングを最初に見たときは非常識と騒いだ人もいるが今はスポーツ。スカイダイビングはどう見てもクレージーだがこれもスポーツ。自分の常識を他人が超えている時は騒ぐ人が多い。危険なことに変わりがないから気を失うことが無いように気合を入れるのは逆に常識だろう。気合を入れる行為を暴力と言って非難する人は逆に選手の命を奪うことに加担することになる。

もちろん、自分で自分にびんたしても構わない。

さて、

将棋クラブでコーチ(師匠)が選手(弟子)を教える時に、緊張のあまり平常心を失っていたら、覚醒刺激のびんたが必要な時もある。グランド一周でもいい。冷水で顔を洗ってきてもいい。文科系のスポーツでもメンタルを鍛えるための色々な工夫がある。これも、上の定義に沿って考えれば、普通に許容されて実施されている。

強い精神力は逞しい体に宿ることもある。レベルは変わるが文科系でも肉体は重要だ。誰でも知ることだろう。

では、

何が暴力か。肉体的接触を持って無理やり相手にけがをさせる行為。傷害行為。勿論、道具を使っても同じ。

医者は手術は、死ぬリスクもあるが、相手が了解していることで暴力とされない。

暴力は皮膚や臓器や肉体を損傷されるにとどまらない。精神的に傷つけることも含む。脳科学が発展しているから、精神的な暴力は実は脳そのものを破壊している行為であるということ。立派な障害行為なのだ。今から数年もすれば肉体と精神を分けて考えることの不合理性が常識になるだろう。


要するに、精神的であろうが肉体接触であろうが暴力は暴力。肉体接触の無い精神的暴力の検証には確立した方法論が必要。鬱病、対人恐怖症、不眠症、自律神経失調症、など症状は色々ある。

セクハラは肉体と精神に対する最悪の暴力。

パワハラは立場を利用した悪質な強制強要行為。権利、人格、立場、身分、社会性、などを 傷つけ社会的経済的精神的にダメージを受ける。普通の業務指示、業務アドバイスとどう違うか、ちょっと難しい。労務契約、職責職権を越えた行為はパワハラ。



社会的な関係と無関係に行われた暴力(傷害、監禁、罵声、恐喝なんでも)はそのまま犯罪。

社会的関係 を利用して行われた暴力(セクハラ、パワハラ、・・・ハラハラ)はハラスメントと呼ばれる。

いずれも本質は合意のない無理強い。

合意があれば、肉体的、精神的にどのように厳しくても、教育、訓練、治療、業務命令、サポート、職務などとされる。



合意の有無が決定的要素。暴力とスポーツの線引きは合意という一直線だ。



合意は時には文書化される。言葉で確認される。しかし、どれだけ詳細に文書化しても、丁寧に言葉を交わして、基本的な人としての信頼関係がベースに無ければ合意を達成することはできない。

信頼は将来を託すことを可能にし、過去を後悔することもない。



宮川紗江と速見コーチの間には信頼関係に基づく合意が存在することは明らかで、これを暴力と判定することは不可能だ。(他人の常識に沿って暴力的に見えること自体はそれだけで暴力と判定する根拠にはなり得ない。)

塚原夫婦の宮川紗江及び速見コーチに対して行った行為は合意のない無理強い。本来は速見コーチの資格はく奪も含む。第三者の判断でなく、当事者の合意の有無が決定的。第三者委員会が立ち入るとしたら合意の証の検証になるが、その合意の証の前提である信頼関係の有無にも立ち入る必要が出てくる。

しかし、

塚原夫婦は何ら信頼関係を構築できていないことは既に明らかだから、結局パワハラであることは明らか。その認定がされない場合は、第三者委員会で無いこと、塚原夫婦の代弁者委員会となる。委員会メンバー5人の中の二人が既に朝日生命の関係者だったことが明らか。退任しても過去は消せない。そういう姑息なことを続けること自体が第三者委員会の第三者性を失格している証拠になる。居直る二人は恥知らず。

構造的に破たんしている第三者委員会では何も進まないだろう。体操協会は何処から何処まで朝日生命におんぶにだっこを続けているんだろう。恥ずかしくないのか。朝日生命も保険屋として恥知らず。こんな会社は絶対に信用できない。



境界線=合意+信頼関係