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小池百合子は何故あの時「アウフヘーベンします」と言わなかったのか?

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小池百合子はなぜあの時アウフヘーベンしますと言わなかったのか?


質問した記者の言葉に引き摺られて「排除」という言葉を口にしてしまったが、どうして何時も口にしている「アウフヘーベン」が出てこなかったのだろう。

彼女の「アウフヘーベン」が偽物だったからだ。

一見すると矛盾する概念を高次元の概念で統一化するという極めて難しい試みが「アウフヘーベン」なのだが、小池百合子にはそれが出来なかった。嫌、やろうとさえしなかった。踏み絵を作るなんて以ての外だ。

言葉巧みに風を起こして戦いをコントロールしてきた小池百合子は自分が発した言葉を自分で否定した瞬間に自分の風を止めてしまった。

政治センスで考えても、自民と非自民あるいは反自民の大きな対立構図がある中で、非自民の中に別の対立構図を作ってしまっては戦う前に勝負がついていた。小選挙区制では常識以前の基本的なことだ。

束ねる核となる言葉が必要な時に、「アウフヘーベン」は都合のいい概念だった筈なのに、自分で否定しては全てが崩れ落ちる。

共通点、一致点を探す努力を捨てて、相違点、不一致店を探し始めてはリーダーになれる訳がない。



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小池百合子には野党を束ねるアイデアも力量も無かった。 だから排除するしかなかった。彼女の限界だ。アウフヘーベンの言葉を知っていることと出来ることは全く別だ。

その要因は信頼できる能力の高いスタッフやチームを作れなかったこと。誰かが作った気持ちいいアイデアに飛びついているだけでは組織化はできないし推進力にはならない。担がれる神輿にはなれるチャンスはあった。しかし自分で降りてしまった。



小池百合子の「蜘蛛の糸」事件

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小池百合子が「排除します」と言い放ったことと、「蜘蛛の糸」の主人公が糸を伝って上って来る人々に「下りろ」と叫んだことは、結果まで踏まえて全く同じ図式になっていることに誰もが驚いたことだろう。下りろと言ったら自分が下ろされてしまった。排除と言ったら自分が排除されてしまった。短編小説のように小池百合子の政治生命も自分で短編にしてしまった。

「アウフヘーベン」といつものカタカナを使っていれば、今の国会・政治の景色は全く違っていたに違いない。

大義の前ではすべてを自分の力にしなければいけないのは常識。大義が無いから選り好みを始める。愚かなことだ。雑巾がけからやり直すのかな。やはり市民の声を聴くべきだ。



小池百合子は愚かなことに自分に吹いている風が何か分かっていなかったのだ。期待はもっと大きなものだった。 それを過小評価して馬鹿をやってしまった。

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排除しておいて政権交代可能な擁立は有り得ないだろう。矛盾する選択は彼女の政治生命まで奪ってしまった。落選候補は恨み百倍。人生が狂ってしまった。敵に負けたのではない。後ろから砲撃されたのだ。自爆すらできない頓死だ。